日本キリスト改革派札幌教会

第52問

問52 第二戒に加えられている理由は、何ですか。


答 第二戒に加えられている理由は、神が私たちに君臨する主権者であられること、神が私たちの所有者であられること、神が御自身への礼拝に熱心をもっておられることです。

*第二戒に加えられている理由

「あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものには、父の罪を報いて、三、四代に及ぼし、わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。」


「神が私たちに君臨する主権者であられること」


「大いなる主」にふさわしい礼拝は、主御自身が指定された方法に従うものでなければなりません。(詩編95:3)そして、聞き従うことは、決して窮屈なことでも不自由なことでもありません。主に聞き従って、「大いなる主」にひれ伏すことから始まる自由があり、成長があるのです。

「わたしたちを造られた方、主の御前にひざまずこう。共にひれ伏し、伏し拝もう。主はわたしたちの神、わたしたちは主の民、主に養われる羊の群れ、御手の内にある羊。今日こそ、主の声に聞き従わなければならない。」(詩編95:6-7)

「神が私たちの所有者であられること」



「主はわたしたちの神、わたしたちは主の民」(詩編95:7)

わたしたちは、主のものです。
主のものとされているとは、愛されているということです。
大いなる王に愛されていると分かったなら、どうするでしょうか。
恐れと喜びをもってひれ伏すしかありません。

「王はあなたの美しさを慕う。王はあなたの主。彼の前にひれ伏すがよい。」(詩編45:12)

「神が御自身への礼拝に熱心をもっておられること」

 神は、御自身への礼拝について容赦のない熱心をもっておられます。

「あなたたちは、彼らの祭壇を引き倒し、石柱を打ち砕き、アシェラ像を切り倒しなさい。あなたはほかの神を拝んではならない。主はその名を熱情と言い、熱情の神である。」(出エジプト34:13-14)

その容赦のない熱心が、ついにはキリストの十字架による救いへと至るのです。

「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。」(ヨハネ4:23)

第53問

問53 第三戒は、どれですか。


答  第三戒はこれです。
「あなたは、あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱えるものを、罰しないでは置かないであろう。」


問54 第三戒では、何が求められていますか。


答  第三戒が求めている事は、神の御名、称号、属性、規定、御言葉、御業を、
きよく敬虔に用いることです。

「きよく敬虔に用いる」


 主の御名をきよく敬虔に用いることは信仰生活のすべてに関わります。

「主の御名を呼ぶ者はだれでも救われる」(ローマ10:13)

主の御名を正しく呼ぶことが、救われた者の生活です。


 主の御名をきよく敬虔に用いるとは、御名をあがめることです。

「天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。」(マタイ6:9)

また、御名を尊び畏れることです。

「・・・この尊く畏るべき御名、あなたの神、
主を畏れないならば、主はあなたとあなたの子孫に災いをくだされる。」(申命記28:58-59)


さらにそれは、主が示してくださるままに主を信じて、ほめ讃えつつ信頼することです。

「神に向かって歌え、御名をほめ歌え。雲を駆って進む方に道を備えよ。
その名を主と呼ぶ方の御前に喜び勇め。」(詩編68:5)

「主よ、だれがあなたの名を畏れず、たたえずにおられましょうか。
聖なる方はあなただけ。すべての国民が来て、あなたの前にひれ伏すでしょう。
あなたの正しい裁きが、明らかになったからです。」(黙示録15:4)

「世の人は神の御業に賛美の歌をうたう。あなたも心して、ほめたたえよ。」(ヨブ36:24)

また、それは実際にその御名にふさわしく従うことです。

「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」(マタイ6:21)


主の御名にふさわしく従う者とは、打ち砕かれ悔いる心をもって、主の贖いのみに望みを置きながら従う者です。
創造主、摂理の主、贖い主、裁き主、再臨の主・・・。
主の贖いにあずかることなくして、誰も正しく主の御名を呼ぶことはできません。


主が正しく御名を呼ぶ心と生活を私たちのうちに新しく造り出してくださいますように。

御言葉におそれおののき、御言葉に打ち砕かれて悔い、主を信じて愛する心をもって、絶えず主の御名を呼びましょう。(詩編51:19、イザヤ66:2)

第55問

問55 第三戒では、何が禁じられていますか。


答  第三戒が禁じている事は、神が御自身を知らせるのに用いておられる
どんなものをも、汚したり濫用したりすることです。

「汚したり濫用したりする」


神は隠れたことを見ておられます。(マタイ6:4、6、18)
また、私たちが語ったつまらない言葉も、心に留めておられます。(マタイ12:36)
そして、聖書は次のように教えます。

「神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。」(ヘブライ4:13)

公然たる違反が問題であることは言うまでもありません。
しかし、それ以上に警戒しなければならないのは、隠された違反です。公然たる違反なら、恥じることもできるでしょう。しかし、隠された違反は気づくことさえできません。特に、主の御名に関わる違反は、心の姿勢や言葉に関わることが多いので、人の目には隠されやすい罪です。

「子は父を、僕は主人を敬うものだ。しかし、わたしが父であるなら、わたしに対する尊敬はどこにあるのか。わたしが主人であるなら、わたしに対する畏れはどこにあるのかと、万軍の主はあなたたちに言われる。わたしの名を軽んじる祭司たちよ、あなたたちは言う。我々はどのようにして御名を軽んじましたか、と。あなたたちは、わたしの祭壇に、汚れたパンをささげておきながら、我々はどのようにしてあなたを汚しましたか、と言う。」(マラキ1:6-7)

「あなたたちは、わたしにひどい言葉を語っている、と主は言われる。ところが、あなたたちは言う、どんなことをあなたに言いましたか、と。あなたたちは言っている。『神に仕えることはむなしい。たとえ、その戒めを守っても、万軍の主の御前を喪に服している人のように歩いても、何の益があろうか。むしろ、我々は高慢な者を幸いと呼ぼう。彼らは悪事を行っても栄え、神を試みても罰を免れているからだ。』」(マラキ3:13-15)

第56問

問56 第三戒に加えられている理由は、何ですか。


答  第三戒に加えられている理由は、この戒めを破る者がどんなに人々からの罰を免れても、私たちの神、主は、御自身の正しい審判を免れさせはなさらない、ということです。

「罰しないでは置かないであろう。」


 主の御名を唱える者は、主に仕える者です。
彼は熱心に礼拝をささげる者であるかもしれません。
また、熱心に祈り、献げ物をする者であるかもしれません。このような神への奉仕の中に、主の御名をみだりに唱える者の罪が隠されています。それゆえ、この罪は、他の罪と比べて人々からの罰を免れやすいものと言ってよいでしょう。

「(祭司)エリの息子は、ならず者で主を知ろうとはしませんでした。」(サムエル上2:12)

彼らは、自分の舌と腹を満たすために、主への供え物を自分勝手に扱っていました。(2:13-17)また、彼らは
「臨在の幕屋の入り口で仕えている女たちとたびたび床を共に」することさえしていました。(2:22)

彼らの所業は、父である祭司エリに告げられ、エリは彼らを諭しました。しかし、息子たちは父の言葉に耳を貸そうとはしませんでした。祭司エリも、そのような息子たちを諭すだけで罰しようとはしませんでした。民の指導者たる祭司が罰しない以上、息子たちの罪を問うことのできる人はいませんでした。


 しかし、ある日、神の人がエリのもとに来て、こう告げます。

「主はこう言われる。・・・わたしを重んじる者をわたしは重んじ、わたしを侮る者をわたしは軽んじる。・・・あなたの二人の息子ホフニとピネファスに起こることが、あなたにとってそのしるしとなる。二人は同じ日に死ぬ。」(2:27-36)

また、エリの従者サムエルに対する主の御言葉は、こうでした。

「わたしはエリに告げ知らせた。息子たちが神を汚す行為をしていると知っていながら、とがめなかった罪のために、エリの家をとこしえに裁く、と。」(3:13)

その御言葉どおり、エリの二人の息子は死に、その知らせを聞いた日にエリも死にます。
エリは40年間イスラエルのために裁きを行った祭司でした。(4:14-18)

第57問

問57 第四戒は、どれですか。


答 第四戒はこれです。
「安息日を覚えて、これを聖とせよ。六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた」。

問58 第四戒では、何が求められていますか。


答 第四戒が求めている事は、神が御言葉において、はっきりと七日のうち丸一日を御自身のための聖安息日にすると指定されたとおりに、その定めの時を神に対してきよく守ることです。

「神に対してきよく守る」

 第三戒への違反が人の目に隠れがちなのと対照的に、第四戒は人の目によって判定されやすい戒めです。しかし、人の目にはきよく守っているように見えても、実はそうでないことも大いにあり得ます。神は、宗教熱心に歩むイスラエルに対して、こう言われました。

「むなしい献げ物を再び持って来るな。
香の煙はわたしの忌み嫌うもの。新月祭、安息日、祝祭など、災いを伴う集いにわたしは耐ええない。
お前たちの新月祭や、定められた日の祭りを、わたしは憎んでやまない。
それはわたしにとって、重荷でしかない。それを担うのに疲れ果てた。」(イザヤ1:13-14)

 彼らは、自分の目から見ても人の目から見ても、申し分のない熱心さで神に仕えていました。熱心に礼拝に足を運びました。多くの献げ物もささげました。また、多くの祈りもささげました。しかし、彼らが自分の行いを悔い改めて、神に従うことはありませんでした。それゆえ、人の目には申し分なくても、神の御目には罪で覆われた者でした。主は、彼らを招いてこう言われます。

「論じ合おうではないか、と主は言われる。
たとえ、お前たちの罪が緋のようでも、雪のように白くなることができる。
たとえ、紅のようであっても、羊の毛のようになることができる。」(イザヤ1:18)


安息日は、「神に対してきよく守る」べきものです。

人に対してではありません。主を礼拝する一日を大切にすればするほど、このことを覚えましょう。
この戒めに従う幸いを大胆に伝える教会として、私たちの教会が成長させていただけるよう祈ります。

第59問

問59 七日のうちどの日を、神は週ごとの安息日と指定されましたか。


答 神は、世の初めからキリストの復活までは、週の第七日を週ごとの安息日と指定されました。そして、キリストの復活からは、週の第一日を世の終わりまで続けるように指定されました。これがキリスト教安息日です。

「神は、世の初めからキリストの復活までは、週の第七日を週ごとの安息日と指定されました。」


 神は、御自身の模範と定めによって、週の第七日を安息日として指定されました。

「天地万物は完成された。第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。」(創世記2:1-3)

私たちの生活は休息を必要としているのみならず、休息しなければならないものとして定められました。なぜ週の終わりの日に休まなければならないのか、と問われるなら、こう答えるべきだったでしょう。

「第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった」

からだ。その日を守ることによって、人は神の創造を思い、自分たちがいかに神に依存しているかを思い起こします。これは、礼拝生活の土台です。また、そのような神への責任を思い起こします。これは、道徳的な生活の土台です。

「安息日は、宗教と道徳の根底そのものを不断に思い起こすように意図されていたのである。」(ヨハネス・G・ヴォス「大教理問答講解」・問116)

「キリストの復活からは、週の第一日を世の終わりまで続けるように指定されました。」


 キリストの復活後、教会は「週の初めの日」「パンを裂くために」集まり、その日に献金をささげるようになっていきました。(使徒20:7、第一コリント16:1-2)

なぜ「週の初めの日」に休むのか、と問われるなら、どう答えるべきでしょうか。
聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだキリストが、「週の初めの日」に復活なさったからだ。これこそ、使徒が最も大切なこととして伝えたことでした。(第一コリント15:3-5)

「週の初めの日」に、神の創造を思うと共に、成就された贖いを思い、いかに神に依存しているかを思い起こします。これが礼拝生活の新たな土台です。また、そのような神への感謝と喜びをもって、自分の責任を思い起こします。これが道徳生活の新たな土台です。

第60問

問60 安息日は、どのように聖別すべきですか。


答 安息日は、次のようにして聖別すべきです。その日は終日きよく休むこと。他の日なら正当な世俗の職や娯楽さえもやめること。すべての時間を公私の神礼拝を守るのに費やすこと。ただし、必要やむをえない業とあわれみの業にとられる時間は別です。

「終日きよく休むこと」


 休むことと働くことは、表裏一体です。「六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし」と命じられています。(出エジプト20:9)罪が世に入って以来、働くことは単純に喜びであるとは言い難いものとなってしまいました。(創世記3:17-19)しかし、「休むこと」が力をもたらします。

 荒れ野のイスラエルにとって、主が与えたもうマナを集めることが六日の間になすべき仕事でした。主が仕事を与え、仕事の成果を与えて、その生活を支えてくださいました。七日目には集めることは許されず、また何も与えてはくださいませんでした。

「今日は主の安息日である。
今日は何も野には見つからないであろう。
あなたたちは六日間集めた。
七日目は安息日だから野には何もないであろう。」(出エジプト16:25-26)

 荒れ野のイスラエルは、六日の間働き、一日を神礼拝を中心にしながら休むという一週間を繰り返し続けて、厳しい荒れ野の旅を乗り切りました。

「すべての時間を公私の神礼拝を守るのに費やすこと」


 確かに神礼拝を守るためには、いろいろな努力が求められます。しかし、どんなに人間的に努力するとしても、神礼拝の大切な本質は「きよく休むこと」です。主を真実に礼拝する人々は、そこでしか得られない休みを与えられます。安息日はそのように守られなければなりません。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。
休ませてあげよう。
わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい。
そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28-30)

 
 このように約束なさった人の子イエス・キリストが「安息日の主」なのです。(マタイ12:9)