日本キリスト改革派札幌教会

第18問

2019-09-08

問18 人が堕落した状態の罪性は、どの点にありますか。

答   人が堕落した状態の罪性は、次の点にあります。
すなわち、アダムの最初の罪の罪責を負うていること、原義を失っていること、人の性質全体の腐敗つまりいわゆる原罪があること、そこからあらゆる現行罪が生じていることです。

「人が堕落した状態の罪性は・・・」

 人の罪性(人が罪人であるという事実)は、行いとしてあらわれた罪だけを問題としていたのではわかりません。そのような現行罪の大小、多少に惑わされず、心の動きにまで目を向けなければなりません。心からあらゆる現行罪が生じてくるからです。

「悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。」(マタイ15:19)

「・・・人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。そして、欲望がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。」(ヤコブ1:14-15)

そのような心の動きにまで目を向けたときに、すべての人の罪性が明らかになるでしょう。
神の御前で、人は罪を犯すから罪人なのではありません。
罪人だから罪を犯すのです。

「人の性質全体の腐敗つまりいわゆる原罪があること」

 これは、人がまったく何一つ善いことを行えないという意味ではありません。パウロは律法の実践に最善を尽くして、自分は「律法の義については非のうちどころのない者でした」と言うことができました。(フィリピ3:6)しかし、そのような正しさは人前での義であって、神の御前で通用するような義ではありません。人の心をご覧になる神の御前に立つとき、彼はこう叫ばざるをえませんでした。

「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」(ローマ7:24)

現行罪を人と比較するだけでは、罪性の真相は明らかになりません。行いのみならず、行いの源である心においても神の光の中を歩むことが必要です。

「わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです。
・・・神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。」(第一ヨハネ1:5、7)

光の中を進めば進むほどに悲しみも喜びも深まるのかもしれません。
しかし、キリストにおいては、喜びの方がはるかに勝っているでしょう。

第19問

問19 人が堕落した状態の悲惨とは、何ですか。

答   全人類は、堕落によって神との交わりを失いました。
今は神の怒りとのろいの下にあり、そのため、この世でのあらゆる悲惨と死そのものと永遠の地獄の刑罰との責めを負わされています。

「全人類は、堕落によって神との交わりを失いました。」

 神との最初の交わりから落ちてしまった時、神との交わりはアダムとエバにとって好ましいものではなく、避けるべきものとなってしまいました。しかも、園の木の間に隠れても神に対しては無駄であることすらわからないほどに、神がどのような御方であるかがわからなくなってしまいました。(創世記3:8)また、罪を犯す前に持っていた大胆な安心感も失われました。

「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」(創世記3:10)

そして、結局彼らはエデンの園から追放されてしまいます。(創世記3:24)確かにそれは悲しいことだったでしょう。
 しかし、もはや神との交わりに満ちた生活は、彼らの望むところではなくなっていたのです。

「今は神の怒りとのろいの下にあり」

 神の怒りとのろいの下にあることと、それを悲しむことは別のことです。神の怒りに触れて、のろいを宣告されたとき、確かにアダムとエバの心は悲しみに満たされたことでしょう。しかし、その悲しみはやがて失われました。そして、今も人類は神の怒りとのろいの下にありますが、その自覚は失われたままです。その自覚を再び明瞭に抱き始めることがあるとすれば、キリストへの信仰を与えられて神の怒りとのろいの下にあることを過去のこととして語れるようにされたときです。
すなわち、 キリストと共に生き始めるとき です。

「わたしたちも皆・・・以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。」 (エフェソ2:2-6)

それまでは、神にことごとく従うなどということは窮屈の極みと思われ、従わなければのろわれるなどということは、あってはならないことのように思われるのではないでしょうか。(参照ガラテヤ3:10)

「そのため、この世でのあらゆる悲惨と死そのものと永遠の地獄の刑罰との責めを負わされています。」

 これもまた信仰によってのみ認識しうる事実です。
信仰によって神の怒りとのろいを自覚しないのなら、いっそうありえないことのように思われるでしょう。

第20問

問20 神は人類を、罪と悲惨の状態のうちに滅びるままにされましたか。

答  神は、全くの御好意によって、永遠の昔から、ある人々を永遠の命に選んでおられたので、彼らと恵みの契約を結ばれました。
それは、ひとりのあがない主によって、
彼らを罪と悲惨の状態から救助して、救いの状態に入れるためです。

「神は、全くの御好意によって」

 神が人を罪と悲惨の状態のうちに滅びるままにされたならば、神は不正を働かれたことになるのでしょうか。これは聖書全体に関わる大きな問いです。受け入れ難いかもしれませんが、答えは「否」です。人をそのまま放っておいたとしても、神には何の不正もありません。この点で、私たちの口がふさがれて、神の裁きに服することができたならば、幸いです。

「さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それはすべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。」(ローマ3:19)

神の裁きに服することなくして、神の「全くの御好意」は、実際のところ意味不明です。神の裁きに服することのない人々にとって、神の救いは恵みではなく神の義務です。

「永遠の昔から、ある人々を永遠の命に選んでおられたので、・・・」

私たちの救いは、神の選びに基づいています。
しかも、その選びは「永遠の昔から」です。

「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」 (エフェソ1:4)

この教理は、私たちの救いの基礎を教えるものです。
しかし、それは自分たちが神によって選ばれていると誇るためではありません。
反対に救いが不平等であるかのように考えてこの教理を無視したり、不平等であると見られることを恐れて恥じたりすることも間違っています。この教理の価値にふさわしい慎重な受け取り方が求められています。ウエストミンスター信仰告白は、次のように教えます。

「予定というこの高度に神秘な教理は、御言葉に啓示された神の御旨に注意して聞き、それに服従をささげる人々が、彼らの有効召命(神の恵みによる一方的な救い)の確かさから自分の永遠の選びを確信するよう、特別な配慮と注意をもって扱われなければならない。そうすればこの教理は、神への讃美と崇敬と称賛の、また謙遜と熱心と豊かな慰めの材料を、すべてまじめに福音に従う者たちに提供してくれるであろう。」(ウエストミンスター信仰告白3章8節)

第20問−2

問20 神は全人類を、罪と悲惨の状態のうちに滅びるままにされましたか。

答  神は、全くの御好意によって、永遠の昔から、ある人々を永遠の命に選んでおられたので、彼らと恵みの契約を結ばれました。
それは、ひとりのあがない主によって、
彼らを罪と悲惨の状態から救助して、救いの状態に入れるためです。

「ひとりのあがない主によって」

 人は、救いの方法を知りたいと考えるのではないでしょうか。すなわち、「どうすれば、救われるのか」と問います。しかし、聖書は、一人の御方を指し示します。救いの方法を研究し、それを実践して救われようとしていた人々に対して、キリストは次のように言われました。

「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものなのだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。」(ヨハネ5:39-40)

 救いの方法を知ろうとする人々は、イエス・キリストを信じるだけでは物足りないでしょう。あるいは、それはきわめて曖昧で愚かなことのように思われるかもしれません。しかし、私たちが実践できる救いの方法などありません。その道は閉ざされています。

「万一、人を生かすことができる律法が与えられたとするなら、確かに人は律法によって義とされたでしょう。」
そして、神との交わりに戻ることもできたでしょう。

「しかし、聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです。それは、神の約束が、イエス・キリストへの信仰によって、信じる人々に与えられるようになるためでした。」(ガラテヤ3:21-22)

 道に迷った羊は、帰り道を教えられても、戻る知恵も力もありません。すっかり汚れた毛を白くすることもできません。ただ、羊のために命を捨ててくださった良き羊飼いの声に信頼して聞き従うことだけが、唯一の救いです。そして、それがすべてです。


帰り道の詳細を知らなくても、
羊飼いの声さえ聞き間違えないなら構わないのです。
神との交わりへと帰ることができます。

第21問

問21 神の選民のあがない主とは、どなたですか。

答  神の選民の唯一のあがない主は、主イエス・キリストです。
   このかたは、神の永遠の御子でありつつ人となられました。
   それで、当時も今もいつまでも、二つの区別された性質、
   一つの人格をもつ、神また人であり続けられます。

「神の選民の唯一のあがない主は、主イエス・キリストです。」

 自分の正しさに望みを置く一人の人が、キリストにこう尋ねました。

「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」(マタイ19:16)

このような質問をすること自体が、神と自分自身についての不信仰な無知を示しています。
自分の罪を本当に知ったとき、パウロはこう叫びました。

「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。
死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」(ローマ7:24)

神との永遠の交わりに生きるための方法はありません。神との永遠の交わりに生きることができるように、私たちをあがなってくださる唯一の御方がおられるのみです。

「神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。
この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました。」(第一テモテ2:5-6)

「このかたは、神の永遠の御子でありつつ人となられました。」

 使徒たちは、キリストを自分の目で見て、その手で触れました。
そして、その御方を伝えました。

「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、
目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。」(第一ヨハネ1:1)

彼らと共におられたのは、確かに一人の人間でした。
しかし、同時に神でした。

「言葉は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。
それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(ヨハネ1:14)

彼こそ
「父のふところにいる独り子である神」です。(ヨハネ1:18)

第22問

問22 キリストは神の御子でありつつ、どのようにして人になられたのですか。

答  神の御子キリストが人になられたのは、聖霊の御力によって処女マリヤの胎に宿り・彼女から生まれながらも・罪はないという仕方で、真実の体と理性的霊魂をおとりになることによってでした。

「どのようにして人になられたのですか。」

 キリストが神の御子でありつつ、どのようにして人になられたかについて、人は聖書の教えを軽んじる傾向があります。それゆえ、いっそう信仰に基づく畏れと慎重さをもって、この教理を学ばなければなりません。

「キリスト教信仰のすべての教理の中でこの教理ほど嘲笑と冷笑をあびせられた教理はない。
キリストの処女降誕の教理が放棄されるところには、聖書の十全霊感と権威の信仰もすてさられ、やがてすべての他の教理も放棄されてしまうのである。」(ウエストミンスター大教理問答講解・上、ヨハネス・G・ヴォス、p147)

「聖霊の御力によって処女マリヤの胎に宿り・彼女から生まれながらも」

 イエス・キリストは、マリヤからお生まれになりました。このことによって、彼が完全な人間であったことが示されています。他のすべての人間が親から人間としてのあらゆる性質を受け継いで生まれてくるのと同様に、彼もマリヤから人間としてのあらゆる性質を受け継いでお生まれになりました。しかし、その受胎は通常の仕方ではなく聖霊の御力によるものでした。天使ガブリエルが処女マリヤに告げたことは、次の通りです。

「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」(ルカ1:35)

神の御子でありつつ人となられた御方は、このような仕方で世に来られたのです。

「罪はないという仕方で」

 この出生は、人知を超えたものです。
このような出生によって、「罪はないという仕方で」イエス・キリストは世に遣わされたのです。

「時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。」(ガラテヤ4:4)

律法の下に、罪のない義人は一人もいません。ただ偽善者だけが自分を義人の一人とみなすにすぎません。しかし、ここにただ一人イエス・キリストだけが罪のない御方としてお生まれになりました。そして、実際に人間としての弱さに苦しみつつも、罪のない生涯を歩み抜かれたのです。

「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」(ヘブライ4:15)

このような大祭司こそ、
「わたしたちにとって必要な方なのです。」(ヘブライ7:26)

第22問 −2

問22 キリストは神の御子でありつつ、どのようにして人になられたのですか。

答  神の御子キリストが人になられたのは、聖霊の御力によって処女マリヤの胎に宿り・彼女から生まれながらも・罪はないという仕方で、真実の体と理性的霊魂をおとりになることによってでした。

「真実の体を」

 キリストが真実の体をおとりになったのは、私たちを救うためです。
私たちは体を持つ生身の人間(血肉)として恐れ、悩み、苦しんでいます。また、そのような者として罪を犯します。そこで、キリストもそのような私たちを救うために、私たちと同じ者としておいでになったのです。

「ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。」(ヘブライ2:14-15)

私たちはキリストにおいて、私たちと同じように苦しみ、いつも私たちのすぐ近くにおられて助けてくださる唯一の救い主を知るのです。

「理性的霊魂を」

 ゲッセマネで「わたしは死ぬばかりに悲しい」と嘆かれたキリストは、私たちと同じ理性的霊魂を持ち、私たちと同じように弱く、苦しむ御方でした。カルヴァンはこう教えます。

「多くの人は昂然と死を軽んじ、他の人は従容として死に赴く。ところが神の子が死の恐怖に打ち砕かれてほとんど気を失うほどであったとすれば、彼の揺るがぬ確かさや偉大さとは何だったのか。
・・・キリストが通常の死と戦う以上の苛酷で巨大な戦いをしておられたことを示すのではなかろうか。」(キリスト教綱要第2編16:12)

キリストは確かに私たちの救いのために多くの価を支払ってくださったのです。

第23問

問23 キリストは、私たちの贖い主として、どういう職務を果たされますか。

答  キリストは、私たちの贖い主として、預言者、祭司、王の職務を、
へり下りと高挙とのどちらの状態においても果たされます。

「キリストは」

 日本語聖書における「キリスト」という御名は、ギリシャ語「クリストス」の音訳です。そして、「クリストス」は、ヘブライ語「メシヤ」のギリシャ語訳であり、「油注がれた者」がその意味です。王や祭司の職務に就任する際に、油を頭に注ぐということが行われましたが、それはその義務を果たすための知恵と能力を、その人に与える聖霊を象徴するものでした。

「サムエルは油の入った角を取り出し、兄弟たちの中で彼に油を注いだ。その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった。」(サムエル上16:13)

「彼らがこのように、油を注がれることによって、祭司職は代々にわたり、永遠に彼らに受け継がれる。」(出エジプト40:15)

また、預言者も油を注がれた人と呼ばれています。

「主は・・・言われた。『わたしが油注いだ人々に触れるな、わたしの預言者たちに災いをもたらすな』と。」(詩編105:14-15)

「主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。」(イザヤ61:1)

「私たちの贖い主として、預言者、祭司、王の職務を、・・・果たされます。」

 旧約に登場する王、祭司、預言者たちは、メシヤ(油注がれた者)です。しかし、それはイエス・キリストを指し示す型であり、影にすぎませんでした。

キリストこそ「王の王、主の主」です。(第一テモテ6:15)

また、永遠の贖いを成し遂げられた大祭司です。(ヘブライ9:11-12)

そして、「彼が語りかけることには、何でも聞き従え」と言われて遣わされた預言者です。(使徒3:23)

第24問

問24 キリストは、どのようにして預言者職を果たされますか。

答 キリストが預言者職を果たされるのは、御自身の御言葉と御霊によって、私たちの救いのために神の御意志を私たちに啓示してくださることによってです。

「キリストが預言者職を果たされるのは・・・」

 ユダヤ人の間で、来たるべきメシヤはモーセのような預言者として知られていました。

「モーセは言いました。『あなたがたの神である主は、あなたがたの同胞の中から、わたしのような預言者をあなたがたのために立てられる。彼が語りかけることには、何でも聞き従え。この預言者に耳を傾けない者は皆、民の中から滅ぼし絶やされる。』」(使徒3:22-23)

この預言者こそ、キリスト・イエスです。

「御自身の御言葉と御霊によって」

 キリストは、どのようにして私たちの救いのために神の御意志を私たちに啓示してくださるのでしょうか。「御自身の御言葉と御霊によって」です。


「主の名を呼び求める者はだれでも救われる。」(ローマ10:13)

 キリストの隣で十字架にかけられた犯罪人でさえ、主の御名を呼び求めて救われました。(ルカ23:42-43)

 どのような時でも、主の御名を呼び求めることができたなら、私たちの救いに十分なことは確かに啓示されたのです。その時、私たちはキリストの預言者職の恵みに十分にあずかっています。あるいは反対に、主の御名を呼び求めることができないなら、他のことがどれほど良くわかっても、その時その場所で知るべき神の御意志が良くわかっていません。


キリストはどのような時でも「御自身の御言葉と御霊によって」、私たちが主の御名を呼び求めることができるようにしてくださいます。

第25問

問25 キリストは、どのようにして祭司職を果たされますか。

答  キリストが祭司職を果たされるのは、神の正義を満足させて私たちを神に和解させるために、御自身をいけにえとしてただ一度ささげられたこと、また私たちのためにとりなし続けてくださることにおいてです。

「キリストが祭司職を果たされるのは・・・」

 預言者は神から遣わされて、神に代わって人々に語りかけます。祭司は神によって選ばれて、人に代わって神に近づきます。両者ともに神と人との間に立って、神と人との交わりのために無くてはならない役割を果たします。
 祭司の務めを一言で言えば、これです。

「大祭司はすべて人間の中から選ばれ、罪のための供え物やいけにえを献げるよう、人々のために神に仕える職に任命されています。」(ヘブライ5:1)

人が神に近づくときには、「罪のための供え物やいけにえ」が必要でした。しかし、人間から選ばれた祭司たちが完全ないけにえを献げることは、決してできませんでした。

「すべての祭司は、毎日礼拝を献げるために立ち、決して罪を除くことのできない同じいけにえを、繰り返して献げます。」(ヘブライ10:11)

「神の正義を満足させて私たちを神に和解させるために、
御自身をいけにえとしてただ一度ささげられたこと、・・・」

 キリストこそ、真の完全な大祭司です。

「この方は、ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために毎日いけにえを献げる必要はありません。というのは、このいけにえはただ一度、御自身を献げることによって、成し遂げられたからです。」(ヘブライ7:27)

まさしくキリストは、
「多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた」のです。(ヘブライ9:28)完全ないけにえが献げられた以上、罪のための供え物やいけにえは、もはや必要ではありません。

「また私たちのためにとりなし続けてくださることにおいてです。」

 キリストは御自身をいけにえとしてただ一度献げられました。しかし、その死をもって終わらず、三日目に復活して天に昇られました。そして、今信じるべきことについては、こう教えられています。

「この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。」 (ヘブライ7:25)

第26問

問26 キリストは、どのようにして王職を果たされますか。


答  キリストが王職を果たされるのは、私たちを御自身に従わせ、治め、守ってくださること、また御自身と私たちのあらゆる敵を抑えて征服してくださることにおいてです。

「キリストが王職を果たされるのは・・・」

 キリストは王の王です。
しかし、この世の王や権力者たちとはまったく違います。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者とみなされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(マルコ10:42-45)このような王であるからには、世の王や権力者のように統治なさるわけではないことを、よく覚えなければなりません。権力がないのではありません。その用い方がまったく違っておられるのです。

「私たちを御自身に従わせ、治め、守ってくださること、また御自身と私たちのあらゆる敵を抑えて征服してくださることにおいてです。」


 キリストは、驚くべき仕方で私たちを御自身に従わせます。キリストに従うどころか、反抗している人々の心さえも造り変えて、御自身に従う者とされます。「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。」(フィリピ2:13)迫害者パウロが最も従順なキリストの僕になったのは、この上ない実例です。パウロはこう語ります。「わたしは、その罪人の中で最たる者です。しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。」(第一テモテ1:15-16)

 そして、守ってくださる仕方も驚くべきものです。すべてのことを御心のままに働かせて、守ってくださいます。「神を愛する者たち、つまり御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(ローマ8:28)


 そして、キリストに敵対できるものは何もありません。(第一コリント15:24-25)

「わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。」 (ローマ8:37)

第27問

問27 キリストのへり下りは、どの点にありましたか。


答  キリストのへり下りは、次の点にありました。キリストが生まれられたこと、それも低い状態であられたこと、律法のもとに置かれたこと、この世の悲惨と神の怒りと十字架の呪いの死とを忍ばれたこと、葬られたこと、しばらく死の力のもとに留まられたことです。

「キリストのへり下りは・・・」

 キリストのへり下りは、私たちの理解をはるかに超えています。キリストがどれほどの高さから、どれほどの低さへと下られたか、讃美するのみです。
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ2:6-8)

「キリストが生まれられたこと、それも低い状態であられたこと」

 キリストの地上のご生涯は、そのお誕生からへり下りでした。彼は「布にくるんで飼い葉桶に」寝かせられました。宿屋には、彼とその両親の泊まる場所がなかったからです。(ルカ2:7)

「律法のもとに置かれたこと」

 キリストこそ、律法を授け、律法によって人々を裁くべき御方でした。しかし、その御方が、「律法の下に生まれた者として」遣わされたのです。(ガラテヤ4:4)

「葬られたこと、しばらく死の力のもとに留まられたこと」

 葬りも、復活までの三日も、キリストのへり下りです。御自分を無にしてへり下りたもうのでなければ、それらはどれも彼にふさわしいものではありませんでした。

「イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。」(使徒2:24)

  第28問

問28 キリストの高挙は、どの点にありますか。


答  キリストの高挙は、次の点にあります。キリストが三日目に死人の中からよみがえられたこと、天に昇られたこと、父なる神の右に座しておられること、終わりの日に世をさばくために来られることです。

「キリストの高挙は・・・」


 キリストの高挙とは、低くへり下られたキリストが高い状態へと移られたことを意味しています。キリストのへり下りと同様に、キリストの高挙もまた私たちの理解をはるかに超えています。
「神はキリストの名を高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」(フィリピ2:9)
 キリストほど低くへり下られた御方はなく、キリストほど高く上げられた御方もありません。どんなに重んじられている名があるにせよ、キリストの名よりも高くあがめられるべき名はないのです。このようなキリストのへり下りと高挙を正しく知るなら、神讃美へと向かうのみです。
「こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」(フィリピ2:10-11)

「キリストが三日目に死人の中からよみがえられたこと」


 ある人々はキリストの復活に驚きます。また、ある人々は嘲り、無視します。信仰のない人々がそのように反応するのは、ある意味で仕方のないことです。しかし、キリストを信じる人々にとって、復活は当然のことであり、最も大切なことでなければなりません。
「神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。」(使徒2:24)
「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。・・・聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと・・・。」(第一コリント15:3、4)

「天に昇られたこと、父なる神の右に座しておられること、
終わりの日に世をさばくために来られることです。」


 キリストは今、どこにおられるのでしょうか。弟子達の目の前で、天に上げられました。(使徒1:9)そして今は、父なる神の右におられます。(エフェソ1:20-21)しかも教会から離れることはなく、「ここにいる」「あそこにいる」と指し示すことはできませんが、世の終わりまでいつもわたしたちと共におられます。(マタイ28:20)そして、世の終わりに、

「天に行かれるのをあなたがたが(弟子たちが)見たのと同じ有様で、またおいでになります。」(使徒1:11)

第29問

問29 キリストが手に入れたあがないは、どのようにして私たちに分け与えられますか。


答  キリストの手に入れたあがないが、私たちに分け与えられるのは、キリストの聖霊がそれを私たちに有効に当てはめてくださることに
よってです。

「キリストの手に入れたあがないが、私たちに分け与えられるのは、」

 旧約においても、神は「贖う方」と呼ばれています。
「あなたを贖う方、イスラエルの聖なる神は、主は言われる。恐れるな、虫けらのようなヤコブよ、イスラエルの人々よ、わたしはあなたを助ける。」(イザヤ41:14)
その「贖い」は、イスラエルの民を奴隷状態から解放する御業を述べたものです。新約においては、さらにその意味が深く広いものとされています。キリストの死によって人間の罪が赦され、罪の奴隷状態から解放されて、神との正しい関係に入ることを意味しています。
「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリストによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」(ローマ3:23-24)

「キリストの聖霊が」


「贖い」は、人間の思いをはるかに越えた神の御業です。
「彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか。」(イザヤ53:8)
「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが・・・」(第一コリント1:18)
「この計画は、キリスト以前の時代には人の子らに知らされていませんでしたが、今や“霊”によって、キリストの聖なる使徒たちや預言者たちに啓示されました。」(エフェソ3:5)
 そして、贖いにあずかるとは、聖霊によって新しく生まれること、新しく造りかえられることだと、聖書は教えます。(テトス3:5-6)

「それを私たちに有効に当てはめてくださることによってです。」

 キリストの御言葉もその御業も、正しく人々から受け入れられることはありませんでした。人々は、ある御言葉と御業に感動してキリストに押し迫り、他の御言葉と御業につまずいて彼を離れました。キリストの御言葉と御業の全体によって実現された「贖い」は、まずキリスト御自身を受け入れることから始まります。
「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人々、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」(ヨハネ1:11-12)

そのような神の子の誕生は、聖霊のお働きによってです。


問30問

問30 御霊は、キリストの手に入れた贖いを、どのようにして私たちに当てはめてくださるのですか。


答 御霊が、キリストの手に入れた贖いを私たちに当てはめてくださるのは、私たちの中に信仰を働かせ、それによって私たちを有効召命においてキリストに結びつけることによってです。

「私たちの中に信仰を働かせ」

 キリストの手に入れてくださった贖いによって、神との関係はまったく新しいものとなりました。しかし、その新しい関係の中を生きるためには、信仰が必要です。たとえば、「『キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実で、そのまま受け入れるに値します」、と学んだだけでは足りません。(第一テモテ1:15)その罪人は自分のことだとして、喜んでこの恵みの下にへりくだる信仰が必要です。

 しかし、そのような信仰は人からは出てきません。神からの賜物です。
「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。」(エフェソ2:8)
福音が役に立つためには、その福音の言葉が、それを聞いた人々と信仰によって結びつくようにならなければなりません。(ヘブライ4:2)

「それによって私たちを・・・、キリストに結びつけることによってです」


「信仰とは望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(ヘブライ11:1)
信仰が与えられていなかった時に望んでいたことと、信仰が与えられてから望むことが変わっていきます。そのような中で、望んでいる事柄を確信することになります。迫害者パウロが望んでいたものは、キリストを信じるようになったことで、すべて失われてしまいました。その意味で、かつての希望は彼から取り去られました。しかし、彼はキリストを信じるようになった今、キリストとの交わりを何よりも求めています。
「キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。」(フィリピ3:8、9)

 聖霊は、このようにその人を造りかえつつ、信仰によってキリストに結びつけてくださるのです。
キリストに結びつけられることの素晴らしさと幸いを知ることができるように、自分のためにも、他の兄弟姉妹のためにもお祈りいたしましょう。(エフェソ3:17-19)