日本キリスト改革派札幌教会

| HOME |
論壇 | ウエストミンスター小教理問答 第1問〜第17問 | 第18問〜 | 問31〜第40問 | 第41問〜

第1問


2019-09-08

問1 人のおもな目的は何ですか。

答  人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。

 「人のおもな目的」

私たちは、自分の人生において大小様々な目的を持ちます。それらの目的が思うように果たされたとしても、おもな目的に反していたならば、結局その人生はむなしいものに他なりません。反対に、たとえ思うように事が進まないように見えても、おもな目的にかなっているならば、失望する必要はありません。(詩編127:1−2、ローマ8:28)

 「神の栄光をあらわし」

 「神の栄光をあらわす」と言うと、まず考えるのは、神のために何をすればよいか、ということであるかもしれません。しかし、神は、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要のない御方です。(使徒17:25)神の栄光は、人の働きに全く依存していないのです。
神の栄光をあらわすためには、何よりもまず正しく神を知ることから始まらなければなりません。そして、「イエスは主である」と、十字架の主の栄光を讃える者とされることが、第一のことです。そうでなければ、神の栄光にふさわしいことは何もできないでしょう。(第一コリント12:3)弟子たちの命がけの覚悟も熱心も、ユダヤ人の熱心も、最も大切な知識を欠いている限りは、役に立ちませんでした。(マタイ26:31−35、ローマ10:2−3)

 「永遠に神を喜ぶことです。」

 この世の一時的な喜びではありません。永遠の喜びです。その意味で、この喜びをこの世で完全に理解することはできません。この喜びにとどまるためには、「神の聖所を訪れて」、行く末を見分け続ける必要があります。
そして、この喜びがなければ、どんな信仰者も「あやうく足を滑らせ、一歩一歩を踏み誤りそうになって」しまうでしょう。(詩編73編全体) 「(人は)神の内に揺るがぬ幸いがあると確認しない限り、真実に全身全霊を傾けて神に身を委ねることは決してない。」 (カルヴァン・キリスト教綱要・1編2章1節)

第2問

問2 神は、私たちに神の栄光をあらわし神を喜ぶ道を教えるため、どんな基準を授けていてくださいますか。

 答  旧新約聖書にある神の御言葉だけが、私たちに神の栄光をあらわし神を喜ぶ道を教える、ただ一つの基準です。

「旧新約聖書にある神の御言葉だけが」

これは言葉を換えて言えば、旧新約聖書において神が今も語っておられるということです。

しかし、聖書は人の評価に基づいて神の御言葉だとされているわけではありません。教会の評価によるのでさえありません。人や教会の評価によって聖書が神の御言葉になったり、そうであることをやめたりするなら、何と不確かなことでしょうか。聖書は誰の証言にも依拠せず、聖書自らがそのように証言しているのです。そして、結局のところ
「聖書の権威は、どのような人間や教会の証言にも依拠せず、(真理そのものであり)その著者であられる神に、全く依拠する。」(ウエストミンスター信仰告白1:4)

 さらに、人が聖書の権威を心から受け入るのは、他の人々や教会の説得によるものではありません。
あるいは、自らの探求によって納得するものでさえありません。聖霊のお働きによります。
「(聖書の権威に対する)私たちの完全な納得と確信は、御言葉により、また御言葉と共に、私たちの心の中で証言してくださる聖霊の内的なみわざから出るものである。」(ウエストミンスター信仰告白1:5)
 旧新約聖書を通して、今も語りたもう神の御言葉を聞く人々とは誰でしょうか。聖霊の恵みに謙虚に信頼する人々です。
「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」
そして、
「その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。」(ヨハネ14:26、16:13−14)

「ただ一つの基準です」 

自分勝手な仕方で、神の栄光をあらわし神を喜ぶことなどできません。

いかにまじめで真剣な志をもってそのようにしたとしても無理です。
聖霊の恵みに謙虚に信頼して、神の御言葉に一歩一歩導かれるのでないならば、欺く弓で射た矢のように道をそれて、霊で始めたのに肉で仕上げるような有様になってしまうでしょう。
まさしく旧約イスラエルがその実例です。(詩編78:57、ガラテヤ3:3)

第3問

問3 聖書は、おもに何を教えていますか。

答  聖書がおもに教えている事は、人が神について何を信じなければならないか、また神は人にどんな義務を求めておられるか、ということです。

 「聖書がおもに教えている事は」

 聖書はいろいろな事を教えています。
自分の思いや関心に導かれるだけでは、何が福音なのかわからなくなってしまいます。そうならないように、聖書がおもに教えようとしている事は何なのかを常にわきまえておく必要があります。

 「人が神について何を信じなければならないか」

 この課題については、この問答の問4から問38で取り扱われます。
 自分が信じたいことではなく、信じなければならないことを信じるのが信仰です。

「信仰による従順」へと導くのが、使徒の働きの目標でした。(ローマ1:5、16:26)しかし、神の御言葉に聞き従っているつもりでも、次第にずれていくのが現実の信仰の姿です。聖書を守り続けたはずのユダヤ人は、熱心に聖書を研究しながら、キリストも永遠の命も見失ってしまいました。
「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。」(ヨハネ5:39-40)
 そのあやまちを繰り返さないように、命を得るためにキリストのところへ向かい続ける信仰の道筋をしっかりと身につけておく必要があります。

「神は人にどんな義務を求めておられるか」

 この課題については、この問答の問39以降で取り扱われます。問答におけるこの順序がまず重要です。

信仰が先で、義務が後に続きます。
 神への義務を果たして、神の御前に立つことのできる人は一人もいません。しかし、キリストへの信仰があるから、臆することなく神への義務を学び続けます。聖書によってどんなに自分の罪を知らされても、神に近づくことをやめないのです。律法によって自分の罪を痛切にわきまえたとき、使徒パウロは、キリストの御名をいっそう強く呼んでこう言いました。

「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。
・・・今やキリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることがありません。」(ローマ7:25、8:1)

そして、その感謝のゆえに、さらに主に忠実に従います。ここに私たちの信仰生活があります。

第4問

問4 神とは、どんなかたですか。

答  神は霊であられ、その存在、知恵、力、聖、義、善、真実において、無限、永遠、不変のかたです。

「神とは、どんなかたですか。」

 これは、信仰に基づいた問いです。
すなわち、「神は存在するかどうか」とか「神とは何か」という問いとは、まったく性格の違う問いです。神への恐れと敬いをもって神を仰ぎつつ、「神とは、どんなかたですか」と問うているのです。単なる知的興味ではなく、大いなる神との交わりを求めて問うています。そのような問いでなければ、正しい答は得られません。

「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。」(ヘブライ11:6)

「神は霊であられ・・・無限、永遠、不変のかたです。」

 神は霊です。
人の目で見ることはできません。しかも、無限、永遠、不変のかたです。人間の有限で、つかの間の、移り変わる認識をはるかに超えておられます。それゆえ、神を知れば知るほどに、そのご栄光を讃えてへりくだるように知らなければなりません。聖霊のお導きに謙虚に信頼して聖書の真理を学びます。そして、その真理によって打ち砕かれ悔いる心をもってへりくだりながら、神を礼拝するのです。

「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」(ヨハネ4:24)

神を正しく知るためには、そのような礼拝と礼拝の精神がぜひとも必要です。

「その存在、知恵、力、聖、義、善、真実において、
                 無限、永遠、不変のかたです。」

 そのような神を仰ぐ私たちには、それらのすべて(存在、知恵、力、聖、義、善、真実)が欠けています。そのことを認めて、神に対してへりくだりましょう。もし、それらのものが少しでも見出されるなら、神が与えてくださったからであるとして感謝しましょう。そのようにしながら神を仰いで、神にすべてを求めることを学び続けるのです。信仰によって見えないものに目を注ぎつつ、謙遜と忍耐の限りを尽くしてそのようにしましょう。(第二コリント4:17-18)

「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように。アーメン。」(ローマ11:36)

第5問

問5 ひとりより多くの神々がいますか。

答  ただひとりしかおられません。生きた、まことの神です。

「ただひとりしかおられません。」

 聖書全体が、単純にそのことを教えています。「聞け、イスラエルよ、我らの神、主は唯一の主である。」(申命記6:4)「わたしは初めであり、終わりである。わたしをおいて神はない。」(イザヤ44:6)「・・・たとえ天や地に神々と呼ばれるものがいても、わたしたちにとっては唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神に帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです。」(第一コリント8:5-6)私たちの神は、唯一の神です。ただひとりしかおられません。
 しかし、人間が、唯一の神をどのように信じたか。聖書はそのことをも教えています。あえて一言で言えば、唯一の神を信じる信仰にとどまり続けることは、この上なく難しいことでした。「神は人間をまっすぐに造られたが、人間は複雑な考え方をしたがる、ということ。」(コヘレト7:29)「子は父を、僕は主人を敬うものだ。しかし、わたしが父であるなら、わたしに対する尊敬はどこにあるのか。わたしが主人であるなら、わたしに対する畏れはどこにあるのか。」(マラキ1:6)「かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち、あなたがたはいつも聖霊に逆らっています。」(使徒7:51)神の民の歴史は、単純な信仰の歴史ではなく、人間の複雑な不信仰と神の恵みの歴史です。神の恵みがなければ、唯一の神を信じる民が存在し続けることはできませんでした。それは今も同じです。神の恵み深い救いにおいてのみ、私たちも唯一の神を信じて、ここにいるのです。神の恵み深い救いによらなければ、誰も唯一の神を信じ続けることはできません。使徒パウロの信仰告白は、私たちの告白でもあります。「神の恵みによって今日のわたしがあるのです。」(第一コリント15:10)

 「生きた、まことの神です。」


生きておられるのは、神です。人も生きていますが、その生はことごとく神に依存しています。(使徒17:24-27)しかも、人の生はおそろしくはかないものにすぎません。(詩編90:3-6、イザヤ40:6-8、ヤコブ4:14)

「生きた、まことの神」と共に生きてこそ、人は真に生きるのです。

第6問

問6 その神には、いくつの位格がありますか。

答 神には、三つの位格があります。御父と、御子と、聖霊です。
 この三位は、実体が同じで力と栄光において等しい、ひとりの神です。

 「神には、三つの位格があります。」


 ここで「位格」と呼ばれているのは、人間の場合なら「人格」と呼ばれるものです。たとえば、アブラハムにはアブラハムの人格があり、イサクにはイサクの人格があります。アブラハムはイサクの父であり、イサクはアブラハムの子ですが、二人は一体ではありえません。人間の場合は、一人格一体です。しかし、聖書において御自身を啓示なさる神を、そのような人間の枠に納めて理解することはできません。それゆえ、何とか理解して信じようとしても不可能です。神が御自身を啓示なさるのは人間の知識を増進するためではなく、救いをもたらすためです。神を正しく知るためには、神の救いを求める謙遜が先立たなければなりません。そのような謙遜は、私たちが学ぶべき教師たちに共通するものです。カルヴァンはアウグスティヌスの言葉を引用してこう教えます。
「もしあなたが私にキリスト教の規則は何かと尋ねるなら、第一にへりくだり、第二にへりくだり、そして第三にへりくだりと、いつもへりくだりをもって答えるであろう。」(キリスト教綱要2編2:11)

「この三位は、実体が同じで力と栄光において等しい、ひとりの神です。」

 私たちが礼拝すべき神は、唯一の神です。
私たちは父なる神を礼拝します。
イエス・キリストが父と呼びかけておられる御方こそ、神だからです。しかし、同時に子なる神イエス・キリストを礼拝します。父なる神と子なるキリストは一つだからです。(ヨハネ10:30)
「屠られた小羊は、力、富、知恵、威力、誉れ、栄光、そして賛美を受けるにふさわしい方です。」「玉座に座っておられる方と小羊とに、賛美、誉れ、栄光、そして権力が、世々限りなくありますように。」(黙示録5:12、13)
 さらに、聖霊なる神を礼拝します。
イエス・キリストが「弁護者」「真理の霊」と呼んでおられる御方です。(ヨハネ14:16)この御方のお働きのゆえに、教会はみなしごのように取り残されることなく、神との交わりのうちに生きるのです。(ヨハネ14:17-20)

洗礼にあずかり、唯一の神との交わりに生きる私たちは、父と子と聖霊の名(単数)によって洗礼を授けられました。それは、別々に子なる神イエス・キリストとの交わりがあり、父なる神との交わりがあり、聖霊なる神との交わりがあるということではありません。

「父と子と聖霊の名によって」唯一の神との交わりに入れていただいたのです。(マタイ28:19)

第7問

問7 神の聖定とは何ですか。

答  神の聖定とは、神の御意志の熟慮による永遠の決意です。
これによって神は、御自身の栄光のために、
すべての出来事をあらかじめ定めておられるのです。

「神の聖定とは」

「聖定」とは、創造された世界の中に起こってくるすべてのことに関する神の御計画をあらわす神学用語です。「予定」も神学用語ですが、「聖定」の中でも特に天使と人間の永遠の運命に関する神の御計画をあらわします。「聖定」によって、「予定」も含めてすべての出来事は神の御計画の中にあることが示されます。

「神の御意志の熟慮による永遠の決意です。
これによって神は、御自身の栄光のために、すべての出来事をあらかじめ定めておられるのです。」 

 神の聖定は、この上なく 賢明な計画 です。
どんな要因も神の熟慮から漏れることはありません。(マタイ10:29-30、詩編139、箴言16:33)


 また、 聖定は自由な御計画 です。

神の御意志以外のいかなる要因によっても左右されることがありません。
人々はそれぞれ自分の思いに従って行動します。しかし、神はそれを通して、あらかじめお定めになった御計画を実現なさるのです。

「人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する。」 (箴言19:21)

様々な偶然も重なるでしょう。
しかし、偶然に委ねられているくじの結果のようなものさえも、神がお定めになります。

「くじは膝の上に投げるが、ふさわしい定めは主から与えられる。」(箴言16:32)

使徒ペトロは、キリストの十字架の死が神の自由な聖定に基づくことを次のように証ししました。

「このイエスを神はお定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。」(使徒2:23)


 さらに 聖定はきよい御計画 です。

いかなる罪の汚れもありません。
神の聖定は、それを知るキリスト者にとって尽きることのない慰めの源泉です。しかし、この御計画を高所から眺め渡すことなどできません。神と肩を並べるようにして「これはすばらしい計画だ」などと認めることもできません。

ただ神の御前にへりくだり、人の罪深い無知を心から認めて、神を讃美するのみです。

「ああ、神の富と知恵と知識の何と深いことか。 だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。」 (ローマ11:33)

第8問

問8 神はその聖定を、どのように実行されますか。

答  神がその聖定を実行されるのは、創造と摂理の御業においてです。

「神がその聖定を実行されるのは、」

聖定は、神の御計画です。
そして、その御計画は、創造と摂理の御業において実行されます。創造と摂理がどのような内容であるかは、問9以降で取り扱われます。ここでは、ただその計画と実行が、完全なものであることだけを確認しておきます。

神の聖定は、「御心のままにすべてのことを行われる方の御計画」です。(エフェソ1:11)

「創造と摂理の御業においてです。」

 聖定は、どのように実行されたのか、あるいはどのように実行されているのか。
実行というからには、自ら確認したいと思うのは当然です。
しかし、信仰によってでなければ、正しく確認できません。「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。」(ヘブライ11:3)
このような仕方で確認することがいかに愚かしく思われても、これ以外に正しく確認する方法はありません。むしろ、こう教えられています。
「本当に知恵のある者となるために愚かな者になりなさい。この世の知恵は、神の前では愚かなものだからです。」(第一コリント3:18-19)
これは学問的努力の軽視や否定ではありません。
いかに多くのことを学んで創造と摂理の御業を否定するにせよ、肯定するにせよ、信仰によらなければ正しく確認することはできないのです。

 多くの学問と経験を積んだニコデモは、ある夜、イエス様をお訪ねして、こう言いました。
「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」
見事にキリストを確認したように見えます。しかし、主は彼に対してこう言われました。
「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
まさしくそのとおりでした。ニコデモは、十字架のキリストを仰ぐことはできません。主はさらにこう言われました。
「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」
この時のニコデモには、まったく意味不明だったでしょう。

信仰によって十字架のキリストを仰ぐところに立つまでは、聖定は意味不明です。 (ヨハネ3:1-15)

第9問

問9 創造の御業とは、何ですか。

答  創造の御業とは、神が、すべてのものを無から、力ある御言葉により、六つの日にわたって、万事はなはだよく造られたことです。

「力ある御言葉により」

「御言葉によって天は造られ、主の口の息吹によって天の万象は造られた。」 (詩編33:6)
 どんなに権威ある人の言葉であっても、その人の言葉だけでは何も始まりません。その言葉にしたがって動く多くの人々や先立つ多くの備えを必要とします。しかし、神の創造は違います。だれの助けも借りず、何も用いません。ただ「御言葉によって」万物を造られたのです。このような聖書の啓示によって、まったく何ものにも依存しない神のご栄光が示されています。

第10問

問10 神は人を、どのように創造されましたか。

答  神は人を、男性と女性とに、知識と義と聖において御自身のかたちにしたがって創造し、被造物の支配を託されました。

「神は人を、男性と女性とに・・・創造し」

神は人を、男と女とに創造されました。(創世記1:27)
 しかも、エバはアダムのあばら骨の一部から創造されました。(創世記2:7、21-22)
これは、両者の上下、優劣の関係をあらわすものではありません。このことによって教えられているのは、互いの関係がいかに近いかということです。エバを見たアダムは言いました。

「ついに、これこそわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう。まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」(創世記2:23)

神の御前では、アダムが自分のあばら骨の一部から創造されたエバに対して誇る理由は何一つありません。主は、アダムを「塵にすぎないお前」と呼ばれます。(創世記3:19)アダムのあばら骨から創造されたエバもまた、その元をたどれば土の塵から創造されたことになります。それを思うなら、アダムもエバも神に対してへりくだるしかありません。しかし同時に、人は神の恵みによって創造された驚くべき存在です。「わたしはあなたに感謝をささげる。わたしは恐ろしい力によって、驚くべきものに造り上げられている。」(詩編139:14)人を男と女とに創造された神の恵みを認め合うことこそ、彼らにふさわしいことでした。そして、私たちにもふさわしいことです。

第11問

問11 神の摂理の御業とは、何ですか。

答  神の摂理の御業とは、神が、最もきよく、賢く、力強く、すべての被造物とそのあらゆる動きを保ち、治めておられることです。

「神が・・・すべての被造物とそのあらゆる動きを保ち、治めておられる・・・」

 私たちを取り巻くあらゆる自然は、必然的な自然法則の下で動いているように見えます。しかし、聖書は、そのような自然の奥に神の御意志と御手を見ることを教えます。

「主は天上の宮から山々に水を注ぎ、御業の実りをもって地を満たされる。」(詩編104:13)

「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる・・・。」(マタイ5:45)

「今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。」(マタイ6:30)

「その一羽(の雀)さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。」(マタイ10:29)

 さらに、私たちの生活は大小数え切れない偶然によって支配されているようにも見えます。しかし、その偶然さえも、神の御意志と御手の下にあると教えます。

「くじは膝の上に投げるが、ふさわしい定めはすべて主から与えられる。」 (箴言16:33)

 また、人間の行動はそれぞれの意志に従って自由になされているように見えます。しかし、ここでも聖書は、神の御意志と御手を見ることを教えます。

「主の御手にあって王の心は水路のよう。主は御旨のままにその方向を定められる。」(箴言21:1)

「人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩を備えてくださる。」(箴言16:9)

 そして、人の罪深い行動さえも神の御支配の下にあると教えます。出エジプトの時、ファラオの心は繰り返しかたくなになり、イスラエルの人々を去らせませんでした。しかし、それは同時に「主がファラオの心をかたくなにされたため、・・・去らせなかった」のだと、聖書は教えます。(出エジプト11:10)
 また、イエスの十字架の死に関しても、人々は自由に行動したように見えます。ユダヤの指導者たちは策略をめぐらし、総督ピラトは無責任に手を貸し、群衆は扇動に乗り、弟子たちは裏切り、他の者たちは傍観しました。しかし、聖書はそこにおいても神の御意志と御手を見ることを教えます。

「このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。」(使徒2:23)

神の摂理を完全に理解することなどできません。
しかし、神の摂理を仰いで祈ることに、計り知れない慰めと励ましがあります。

すべての被造物とそのあらゆる動きを保ち、治めたもう神が生きておられます。

第12問

問12 神は、創造された状態の人に、どのような特別の摂理の行為をとられましたか。

答  人を創造された時、神は人に、完全な服従を条件として命を契約されました。しかし、善悪を知る木の実を食べることは、死を制裁として禁じられました。

「神は人に、・・・契約されました」

 神は創造者であり、人は造られた者です。
そのへだたりの大きさを知らなければ、神と人との契約を正しく理解することはできません。神からご覧になるならば、国々さえも全く取るに足りないものにすぎません。

「見よ、国々は革袋からこぼれる一滴のしずく、天秤の上の塵と見なされる。・・・主の御前に、国々はすべて無に等しく、むなしくうつろなものと見なされる。」(イザヤ40:15、17)

 人間の賢さや正しさも神を喜ばせるわけではなく、神のお役に立つわけでもありません。

「人間が神にとって有益でありえようか。賢い人でさえ、有益でありえようか。あなたが正しいからといって全能者が喜び、完全な道を歩くからといって、神の利益になるだろうか。」(ヨブ22:2-3)

それにもかかわらず、神が人と契約をされたということは、 神のへりくだり 以外の何ものでもありません。まず、このような神のへりくだりへの感謝と讃美をもって御言葉を学べるように祈りたいと思います。

「完全な服従を条件として」

 完全な服従は、決して無理な条件ではありませんでした。最初の人アダムとエバに求められたのは、規則と戒律づくめの生活ではありません。むしろ、自由な生活でした。主なる神は、まずこう命じられたのです。

「園のすべての木から取って食べなさい。」(創世記2:15)

たった一つのことだけが禁じられました。

「ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。」(創世記2:15)

その木から取って食べなくても、生活に困ることは決してありません。
喜びや楽しみに欠けが生じるわけでもありません。
神に逆らおうとしないかぎり、善悪の知識の木から取って食べる必要は全く無いのです。そのような意味で、「完全な服従を条件とする」とは、神に対して人が越えてはならない一線を示す以上のものではありませんでした。神は驚くべきへりくだりをもって、人とそのような契約を結ばれたのです。そして、契約に従う人々を喜んでくださり、祝福してくださいました。このような契約によって生きた世界と人生が、どんなに素晴らしいものであったかを覚えたいと思います。

「見よ、それは極めて良かった。」 (創世記1:31)


 契約に背いて、そのような神との幸いな交わりを失うことこそ、死の本質です。

「善悪を知る木の実を食べることは、死を制裁として禁じられました。」

第13問

問13 私たちの最初の先祖たちは、創造された状態で続きましたか。

答  自分の意志の自由に任されていた私たちの最初の先祖たちは、神に罪を犯すことによって、創造された状態から堕落しました。

「自分の意志の自由に任されていた私たちの最初の先祖たち」

 創造された状態のアダムとエバがどれほど自由な生活を与えられていたかをよく覚えておきたいと思います。彼らに禁じられたのは、たった一つのことだけです。
(創世記2:17)「善悪の知識の木の実からは、決して取って食べてはならない」
ということを除けば、彼らの生活はあらゆる面にわたって 自分たちの意志の自由 に任されていました。どのように地を従わせるか、あるいはどの木から取って食べるかも彼らの思うがままだったのです。(創世記1:28-29)

「神に罪を犯すことによって」

 アダムもエバも、その自由の中で神に罪を犯しました。
 エバは蛇にだまされて罪を犯しました。蛇の誘惑の言葉はこうです。

「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」(創世記3:4-5)

蛇の言葉に耳を傾けながら見てみると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように誘っていました。結局、エバは取って食べてしまいます。こうして、彼女は神に対して罪を犯しました。

 アダムは、蛇にだまされたわけではありません。

「アダムはだまされませんでしたが、女はだまされて、罪を犯してしまいました。」(第一テモテ2:14)

それゆえ、アダムは、エバよりもいっそう自由に罪を犯したことが明らかです。神は「食べると必ず死んでしまう」と言っておられたのに、エバには何も起きなかったように見えました。アダムはそれを見て、自分なりに判断したのでしょう。そして、越えてはならない一線を越えて、神に逆らいました。

「女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。」
(創世記3:5-6)

第14問

問14 罪とは何ですか。

答   罪とは、神の律法への一致に少しでも欠けること、あるいは、神の律法にそむくことです。

「神の律法への一致に少しでも欠けること」

 罪を明らかにする規準は、神の律法です。
しかも、心の動きにまで厳密に適用された神の律法によって、罪の正体は明らかにされます。キリスト者となる前のパウロは、神の律法の研究と実践にこの上ない意欲をもって取り組んでいました。(フィリピ3:5-6、使徒22:3)しかし、彼がそれによって自分の罪を知ることはありませんでした。神の律法を心の動きにまで厳密に適用して、自分の罪を知るようになるのは、キリストを信じた後のことです。その時にはじめて、彼は、神の律法と生きた関係を持ちながら生きるようになったのです。

「わたしは、かつて律法とかかわりなく生きていました。しかし、掟が登場したとき、罪が生き返ってわたしは死にました。」(ローマ7:9、10)

「実は、罪がその正体を現すために、善いものを通してわたしに死をもたらしたのです。」(ローマ7:13)


 ファリサイ派は、律法の実践に自信を持っていました。しかし、主イエスは、それがただの自惚れにすぎないことを示されました。(ルカ18:9-12)また、律法の実践によって人前に落ち度がないとしても、神に対してはまったく通用しないことを恐ろしいほどの明瞭さをもって示されました。(マタイ23:25-36) 

「神の律法にそむくことです。」

「神の律法への一致に少しでも欠けること」消極的な不服従です。それに対して、「神の律法にそむくこと」積極的な不服従です。両者を同列に扱うのはおかしいことのように思われるかもしれません。事実、道徳的なファリサイ派と不道徳な徴税人を並べて、同じ「罪」として扱うのは、不当なことのようにも思われます。しかし、神の御前ではどちらも同じく「罪」です。道徳的なファリサイ派の中に、神への恐るべき反抗心がひそんでいました。自分たちの正しさを否定されるとき、神の子キリストさえも殺そうとし始めました。(マルコ3:1-6など)そして、実際に十字架につけたのです。神の律法に従わないことは、いずれにせよ罪です。どちらも神に逆らう思いから出ています。表に出ているものの大小、多い少ないにかかわらず、その根は深いのです。

「罪を犯す者は皆、法にも背くのです。罪とは、法に背くことです。」
(第一ヨハネ3:4)

第15問

問15 私たちの最初の先祖たちを、創造された状態から堕落させた罪とは、何でしたか。

答   私たちの最初の先祖たちを、創造された状態から堕落させた罪とは、彼らが禁断の木の実を食べたことでした。

「創造された状態から」

 問14で、 「罪とは、神の律法への一致に少しでも欠けること、あるいは、神の律法に背くこと」 であると学びました。
「罪とは、法に背くことです。」(第一ヨハネ3:4)
神が何一つ法を定めておられなければ、罪もあり得ません。創造された状態における法は、

「(園の中央に生えた)善悪の知識の木からは、決して食べてはならない」ということだけでした。(創世記3:17)

「禁断の木の実」

「善悪の知識の木」が禁断の木の実であるのは、それ自体の性質によるものではありません。神が「決して食べてはならない」と禁じられたからです。神よりも賢くなり、神に逆らおうとの誘惑にその身を委ねないかぎり、その木の実を食べることなどできません。女が禁断の木の実を食べ、男が食べた時、彼らは神を無視し、神に逆らって神よりも賢い者のように行動したのです。

「女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆(そそのか)していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。」(創世記3:6)

その時、彼らは越えてはならない一線を越えて、神の御支配(神が定められた領域)から迷い出てしまいました。

「堕落させた罪」

 越えてはならない一線を越えて罪を犯した後、彼らはもはや以前のようではありませんでした。神は罪を犯したアダムに次のようにお尋ねになりました。

「取って食べるなと命じた木から食べたのか。」(創世記3:11)

神の問いは率直です。
しかし、アダムの答えは複雑です。

「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」(創世記3:12)

自分が罪を犯したのに、誰が罪を犯したのかはっきりしません。女が悪いのでしょうか。あるいは、その女を与えて、共にいるようにしてくださった神が悪いのでしょうか。

「神は人間をまっすぐに造られたが、人間は複雑な考えをしたがる」
(コヘレト7:29)

第16問

問16 アダムの最初の違反で、全人類が堕落したのですか。

答   あの契約がアダムと結ばれたのは、彼自身のためだけでなく、子孫のためでもありました。それで、普通の生まれかたでアダムから出る全人類は、彼の最初の違反において、彼にあって罪を犯し、彼と共に堕落したのです。

「あの契約がアダムと結ばれたのは、・・・子孫のためでもありました。」

 神の御前では、最初の人アダムこそ、その後の全人類を代表する存在です。その契約は、アダムとの間で結ばれました。

「主なる神は人に命じて言われた。
『園のすべての木から取って食べなさい。善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。』」(創世記2:16-17)

ここで、「人」とは、アダムのことです。アダムに言われたことは、アダムとその子孫である全人類に言われたことに他なりません。

 聖書によれば、地上に増え広がった全人類は彼を根源としています。
「神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。」 (使徒17:26)
この地上にどれほど多くの民族があり、それぞれがどれほど多様な歴史を持つにせよ、神に対して全人類を代表する最初の人物は、一人の人アダムです。聖書にしたがって神と人類との関係をたどるならば、その歴史のはじまりにはアダムがいるのです。そして、私たちはその子孫です。

「普通の生まれかたでアダムから出る全人類は、彼の最初の違反において、彼にあって罪を犯し、彼と共に堕落したのです。」

 アダムの最初の違反が、決定的な意味を持っています。
それこそが、神との契約への違反だからです。それ以前のアダムは、罪を犯すことがなかったので、実際の経験として罪とは何であるかを知りませんでした。また、死も自分とはまったく無関係のものでした。それゆえ、今の私たちの想像を越えて、神と共に歩む生活はこの上なく単純な喜びや感謝に満ちていたことでしょう。しかし、彼が犯した最初の違反によって、人は罪を知るものとなりました。また、「食べると必ず死んでしまう」との威嚇は、現実的な脅威となり、人は死を知るものとなってしまいました。

「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、 罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。」 (ローマ5:12)

第17問

問17 堕落は、人類をどんな状態に落としましたか。

答   堕落は人類を、罪と悲惨の状態に落としました。

「堕落は・・・」

 ここで「堕落」と言われているのは、神との関係における初めの堕落です。神に対して最初に罪を犯した時のことを意味しています。(問15参照)神との最初の関係から落ちてしまったことが、根本的な堕落です。最初の罪を犯したアダムとエバは、神との交わりを嫌うようになってしまいました。

「その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。『どこにいるのか。』彼は答えた。『あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。』」(創世記3:8-10)

神を避けて歩むことの方が、好ましいこととなってしまいました。神との関係から堕落してしまったのです。

「罪と悲惨の状態に落としました。」

 聖書によれば、私たちは「罪と悲惨の状態」にあります。
しかし、それを自覚して悲しむかどうかは別の問題です。もちろん、アダムにおいては罪の自覚と悲しみは、避けられなかったでしょう。しかし、彼から数えて七代目の子孫であるレメクは、自分の暴力を誇って、自分の妻や息子たちに次のように言いました。

「アダとツィラよ、わが声を聞け。
レメクの妻たちよ、わが言葉に耳を傾けよ。
わたしは傷の報いに男を殺し、打ち傷の報いに若者を殺す。
カインのための復讐が七倍なら、レメクのためには七十七倍。」(創世記4:23-24)

 アダムの内に残っていた神への恐れさえ、レメクには消え去っているかのようです。罪と悲惨の現実が重ねられていく時、誇るべきでないことさえ誇られる有様となってしまったのです。反対に、そのような者の繁栄をうらやましいと感じることさえ生じてきます。詩編において一人の信仰者は、こう語ります。

「神に逆らう者の安泰を見て、わたしは驕る者をうらやんだ。」(詩編73:3)

 それゆえに、彼は進むべき道を迷い、あやうく足を滑らせ、一歩一歩を踏み誤りそうになっていました。(詩編73:2)

神から堕落した人類の罪と悲惨の状態は、複雑です。しかし、希望が無くなることはありません。聖書にこう書かれています。

光は暗闇の中で輝いている。 (ヨハネ1:5)

「イエスは再び言われた。
『わたしは世の光である。 わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。』 (ヨハネ8:12)