日本キリスト改革派札幌教会

第41問

問41 道徳律法は、どこに要約的に含まれていますか。

答 道徳律法は、十戒の中に要約的に含まれています。



 人の人格の中に書き記されていた道徳律法は、罪によって腐敗してしまいましたので、もはや基準としての役割を果たすことはできません。神は、そのような人間に十戒を与えてくださいました。そして、それはシナイ山で神の御声によって申し渡され、神によって二枚の石の板に書きつけられました。(出エジプト20章)その初めの四つの戒めは、神に対する私たちの義務を、他の六つの戒めは、人に対する私たちの義務を含んでいます。

 十戒が道徳律法のすべてを表しているわけではありません。
それは、道徳律法を簡潔に要約したものです。
その内容の全体を知るためには、聖書の全体に学びながら、十戒が要約的に示している内容を解釈する必要があります。正しく解釈して、自分に適用することが許されるなら、信仰の有無にかかわらず、大きな益を受けることができます。その益とはこれです。


「道徳律法は、すべての人間に、次のような効用がある。
すなわち、彼らに神のきよい性質と御心と、それらに従って歩むよう彼らを拘束する義務とを教え、それを守れない彼らの無能力と、性質・心情・生活の罪深い汚れとを悟らせ、彼らを罪と悲惨の自覚においてへりくだらせ、またそれによって彼らに、キリストを必要としていることと、その服従の完全性をいっそう明らかに認めさせるのである。」(ウエストミンスター大教理・問95)

十戒を学んで、神に対して口をふさがれ、その裁きに服する人は幸いです。(ローマ3:19)

聖霊によってそのような口が開かれるときにこそ、キリストによって救われる者にふさわしく、主の御名を呼ぶことが許されるでしょう。「主の名を呼ぶ者はだれでも救われる。」(ローマ10:13)

第42問

問42 十戒の要約は、何ですか。

答 十戒の要約は、心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なる私たちの神を愛すること、また自分を愛するように私たちの隣人を愛することです。

「主なる私たちの神を愛すること・・・私たちの隣人を愛すること・・・」


 結局、十戒は愛を教えています。
愛を感じるとか感じないとか、愛についての一般的な考え方は、自分の感情に重きが置かれているように思います。しかし、愛はもっと積極的な内容を持っています。十戒は、どのような時にも神を愛するとはどういうことなのかを教えています。神のご存在、神の御業について、わからなくなるような時にも、神を愛するなら、どうすべきかを教えています。
 隣人についても同様です。どのような時にも隣人を愛するとはどういうことなのかを教えています。自分に不利益や不愉快を与える人を好きになることはできません。敵を嫌ったり憎んだりするのは当然の感情です。しかし、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と主はお命じになりました。(マタイ5:44)敵に対しても、私たちは隣人としての義務を持っています。十戒は、自分の好き嫌いによらずに、「愛する」とはどういうことなのかを教えています。
 使徒パウロによって、愛は「最高の道」であり、「決して滅びない」と教えられています。(第一コリント12:31、13:8)
しかし、その愛は、十戒と別のものではありません。むしろ、「人を愛する者は律法を全うしているのです。」

「愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするのです。」(ローマ13:8、10)

 結局は、律法も十戒も、神への愛と隣人への愛を教えています。このことに関して適切な答えをした律法学者に対して、主イエスは「あなたは神の国から遠くない」と言われました。(マルコ12:34)神の国から遠くないからには、悔い改めて福音を信じることへと近づいているのです。


「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)

十戒の適切な学びは、人を悔い改めて福音を信じることへと導きます。

第43問・第44問

問43 十戒の序言は、何ですか。

答 十戒の序言は、次の言葉にあります。「わたしはあなたの神、主であって、
あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。」

問44 十戒の序言は、私たちに何を教えていますか。

答 十戒の序言が私たちに教えている事は、神が主、また私たちの神でもあがない主でもあられるので、私たちはそのすべての戒めを守る義務がある、ということです。

「神が主、また私たちの神でもあがない主でもあられるので、」

 神が私たちにとってどのような御方であるかを知ることから、神への服従は始まります。

「神に全てを負っており、父としての御配慮によって養われ、神が一切の善の源であり、そのため神以外の何をも求めてはならないことを感じ取るまでは、人が進んで神に服従して身を捧げることは決して起こらない・・・。いや、神の内に揺るがぬ幸いがあると確認しない限り、真実にまた全身全霊を傾けて神に身を委ねることは決してない。」(キリスト教綱要・第1編2章1節)

 ますます喜んで神に従うことを目ざして、聖書を学び続けましょう。
それこそ、神と共に歩むことです。

「また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。」(エフェソ3:18-19)

「私たちはそのすべての戒めを守る義務がある」

 キリストを信じるなら、この義務は重荷とはなりません。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28-30)

第45・46問

問45 第一戒は、どれですか。

答 第一戒はこれです。「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。」

問46 第一戒では、何が求められていますか。

答 第一戒が私たちに求めている事は、神を唯一のまことの神また私たちの神として知り、認めること、またそれにふさわしく神を礼拝し、神の栄光をあらわすことです。

*礼拝という観点から考えると、十戒の前半の戒めの内容は次のように整理することができます。第一戒「礼拝の対象」、第二戒「礼拝の方法」、第三戒「礼拝における態度」、第四戒「礼拝の時」。

「神を唯一のまことの神また私たちの神として知り、認めること」


 神は「知られざる神」として、よく知られもせずに礼拝されることを望んでおられません。ダビデは、自分の子ソロモンに対して、「父の神」だという理由だけで、主を礼拝するように求めたりはしませんでした。

「わが子ソロモンよ、この父の神を認め、全き心と喜びの魂をもってその神に仕えよ」

と求めました。神は、ご自分との交わりの中に生きる民が生きた応答をするのでなければ、満足なさいません。

「主はすべての心を探り、すべての考えの奥底まで見抜かれるからである。もし主を求めるなら、主はあなたに御自分を現してくださる。もし主を捨てるならば、主はあなたをとこしえに拒み続けられる。」(歴代誌上28:9)

神をよく知り、認めて、真実に応答すること。これこそ主が求めておられることです。

「今日、あなたは誓約した。『主を自分の神とし、その道に従って歩み、掟と戒めと法を守り、御声に聞き従います』と。」(申命記26:17)

「またそれにふさわしく神を礼拝し、神の栄光をあらわすことです。」


 神を知り、認めるにふさわしい礼拝とはどのようなものでしょうか。悪魔は、「主を拝み、ただ主に仕える」よりも優れた道があるかのように、似て非なる道へと主イエスを導こうとしました。しかし、主イエスは悪魔のあらゆる誘惑を退けて、こう言われました。

「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ。』と書いてある。」(マタイ4:10)

神を礼拝することがすべてに先行し、優先すると示されたのです。そのことがわかるように聖書を学んでまいりましょう。そして、神をよく知り、心から認めて、神を礼拝いたしましょう。すべてのことに先立って、何よりも最善のこととして

「主を拝み、ただ主に仕えよ。」

第47問

問47 第一戒では、何が禁じられていますか。

答 第一戒が禁じている事は、まことの神を否定するか、神また私たちの神として礼拝せず栄光をあらわさないこと、神だけにふさわしい礼拝と栄光を他の何ものにでもささげることです。

「まことの神を否定する」  


 まことの神を否定するとは、神の存在を認めないことです。無神論の形をとろうが、心の中の秘められた思いのままであろうが、どちらもまことの神を否定することに他なりません。

「神を知らぬ者は心に言う。『神などない』と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない。」(詩編14:1)

「神また私たちの神として礼拝せず栄光をあらわさないこと」


 神の存在を否定しないとしても、神にふさわしい讃美と感謝をもって歩むのでないならば、第一戒に違反しています。そのようなことについて、聖書は「神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず・・・」と語ります。(ローマ1:21)また、聖書を通して神を知り、神を礼拝しながらも、神を「(唯一の)私たちの神」とする親しく真実な交わりの中に生きるのでなければ、それも第一戒違反です。

「あなたの中に異国の神があってはならない。あなたは異教の神にひれ伏してはならない。わたしが、あなたの神、主。あなたをエジプトの地から導き上った神。口を広く開けよ。わたしはそれを満たそう。」(詩編81:10-11)

私たちの神が満たしてくださることを信じなければなりません。

「神だけにふさわしい礼拝と栄光を他の何ものにでもささげること」


 いわゆる偶像礼拝です。聖書は、それを次のように告発します。

「滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。」

「神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです。」(ローマ1:23、25)


第一戒に違反していない人は誰もいません。
このことは他の戒めに関しても同様に言えることですが、第一戒の重要さを思うとき、よく確認しておきたいと思います。キリストを十字架に引き渡した者たちは、まさか自分たちが第一戒に真っ向から違反したことをしているとは思わなかったでしょう。預言者を迫害した多くの「信仰熱心な人々」も同様だったでしょう。福音の言葉は、「正しい者はいない、一人もいない」と告げます。(ローマ3:10)私たちが救われない限り、この戒めに違反する以外の何ごともできはしません。

「・・・人間の精神はいわば永久的な偶像製造工場だということである。ノアの洪水の後に世界の再生があったが、久しく経たないうちに人々はほしいままに神々を作りだした。」(綱要1編11章7節)

第48問

問48 第一戒の「わたしのほか(面前)に」という言葉で、私たちに特に何を教えられていますか。


答 第一戒の「わたしのほか(面前)に」という言葉が私たちに教える事は、万事を見ておられる神が、他のどんな神を持つ罪にも注目し、これを大いにきらわれる、ということです。

「万事を見ておられる神が」 


 私たちの神は万事を見ておられる神です。

「主よ、あなたはわたしを究め、わたしを知っておられる。座るのも立つのも知り、遠くからわたしの計らいを悟っておられる。歩くのも伏すのも見分け、わたしの道にことごとく通じておられる。わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに、主よ、あなたはすべてを知っておられる。・・・どこに行けば、あなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。」(詩編139:1-7)

「他のどんな神を持つ罪にも注目し、これを大いにきらわれる」


 どんな試みの日にも、このことは変わりません。主に忠実に歩んだ人は、どんなに試みられても、主に従いました。

「これらのことがすべてふりかかっても、なお、我らは決してあなたを忘れることなく、あなたとの契約をむなしいものとせず、あなたの道をそれて歩もうとはしませんでした。あなたはそれでも我らを打ちのめし、山犬の住みかに捨て、死の陰で覆ってしまわれました。このような我らが、我らの神の御名を忘れ去り、異教の神に向かって手を広げるようなことがあれば、神はなお、それを探り出されます。心に隠していることを神は必ず知られます。我らはあなたゆえに、絶えることなく殺される者となり、屠るための羊と見なされています。」(詩編44:18-23)

彼は、試みの日にも万事を見ておられる神を決して忘れませんでした。


 試みの日に、主に背いた人々は、万事を見ておられる神をまったく忘れていました。預言者エゼキエルは、神の幻によって彼らの罪を見せていただきました。

「彼は、『入って、彼らがここで行っている邪悪で忌まわしいことを見なさい』と言った。入って見ていると、周りの壁一面に、あらゆる地を這うものと獣の憎むべき偶像、およびイスラエルの家のあらゆる偶像が彫り込まれているではないか。その前に、イスラエルの長老七十人が、シャファンヤの子ヤアザンヤを中心にして立っていた。彼らはそれぞれ香炉を手にしており、かぐわしい煙が立ち昇っていた。彼はわたしに言った。『人の子よ、イスラエルの家の長老たちが、闇の中でおのおの、自分の偶像の部屋で行っていることを見たか。彼らは、主は我々を御覧にならない。主はこの地を捨てられたと言っている。』」(エゼキエル8:9-12)

第49問、50問

問49 第二戒は、どれですか。


答 第二戒はこれです。

「あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水の中にあるものの、どんな形をも造ってはならない。それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものには、父の罪を報いて、三、四代に及ぼし、わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。」

「あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない」
とあります。神礼拝において、
「自分のために」
良いことが必ずしも正しくはないことを覚えておきたいと思います。

問50 第二戒では、何が求められていますか。


答 第二戒が求めている事は、神が御言葉のうちに指定されたとおりの宗教的礼拝と規定のすべてを、受け入れ、実行し、純正完全を保つことです。


 神礼拝に、喜びがあるということは重要です。

「神の祭壇にわたしは近づき、わたしの神を喜び祝い、琴を奏でて感謝の歌をうたいます。」(詩編43:4)
「すべての民よ、手を打ち鳴らせ。神に向かって喜び歌い、叫びをあげよ。」(詩編47:2)


しかし、第一に求めるべきものは、喜びではありません。
神への服従こそまず求めるべきものです。それに伴って喜びが与えられます。これを窮屈で不自由なことと誤解しないようにしたいと思います。神に従うことがないならば、一見自由のように見えても、実際は罪に縛られています。(エフェソ2:1-3)

ダビデは、神礼拝の喜びをこの上なく率直に求めていました。

「(主よ、)あなたの僕の魂に喜びをお与えください。わたしの魂が慕うのは、主よ、あなたなのです。」(詩編86:4)

そして、喜んでいました。
詩編や彼の生涯を通して、彼がどれほど神に従うことに心を砕いていたかを知るならば、神に従うことに喜びが伴い、神に従うことにこそ自由があることを学べるでしょう。ダビデは、その子ソロモンに教えて言いました。

「あなたの神、主の務めを守ってその道を歩み、モーセの律法に記されているとおり、主の掟と戒めと法と定めを守れ。そうすれば、あなたは何を行っても、どこに向かっても、良い成果を上げることができる。」(列王上2:3)


 神礼拝の喜びは、神に従う人々のものです。

「神に従う人よ。主によって喜び躍れ。」(詩編32:11)

「主に従う人よ、主によって喜び歌え。主を賛美することは正しい人にふさわしい。」(詩編33:1)

第50問

問50 第二戒では、何が求められていますか。


答 第二戒が求めている事は、神が御言葉のうちに指定されたとおりの宗教的礼拝と規定のすべてを、受け入れ、実行し、純正完全に保つことです。

「神が御言葉のうちに指定されたとおりの宗教的礼拝と規定のすべて」


 その内容について、ウエストミンスター大教理問答(問108)から学んでおきましょう。大教理は10項目を挙げています。

  • ①キリストの御名による祈りと感謝(キリストの御名によって心から信頼して祈ること・フィリピ4:6、また感謝すること・エフェソ5:20)
  • ②御言葉の朗読、説教、それらに心を傾けて聞くこと。
  • ③礼典の執行とそれにあずかること。
  • ④(天の国の鍵を授けられたことにふさわしい)教会政治と戒規の執行
  • ⑤教職とその維持 (御言葉と教え・福音宣教によってキリストの体を造り上げるために)
  • ⑥(祈りに専念するための)宗教的断食  
  • ⑦神の御名による誓約
  • ⑧神への誓願 
  • ⑨すべての偽りの礼拝を非難、憎悪、反対すること
  • ⑩各自の地位と職責に応じて、偽りの礼拝と全ての偶像礼拝の記念物を除くこと

 以上は、すべて聖書の御言葉に基づいて挙げられていることです。それゆえ、神へのおそれと謙遜をもって聖書の御言葉が語られ、聞かれ続けることが、何よりも求められていることです。そのような礼拝がささげ続けられているなら、神が求めておられる礼拝に次第に近づいていくことでしょう。また、そのようにして養われるなら、何を守り何を斥けるべきかについても見分けがつくようになっていくことでしょう。

「門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。・・・羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。」(ヨハネ10:2-5)

第51問

問51 第二戒では、何が禁じられていますか。


答 第二戒が禁じている事は、像による神礼拝、または神の御言葉に指定されていないあらゆる他の方法による神礼拝です。

「像による神礼拝」


 見えない神を、見える形にしようとする誘惑はこの上なく大きい。そのようにすることで、信仰の確かさが増したかのように感じるのかもしれません。モーセがシナイ山からなかなか降りて来なかったとき、イスラエルの民は若い雄牛の像を造って、こう言いました。

「イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ。」(出エジプト32:4)

そして、大いに喜んで、主の祭りを行いました。敢えてここで人間のことだけを考えたなら、彼らの礼拝は今までにない盛り上がりを見せていたとも言えます。しかし、それは信仰の堕落以外の何ものでもありません。

「あなたたちは自らよく注意しなさい。主がホレブで火の中から語られた日、あなたたちは何の形も見なかった。堕落して、自分のためにいかなる形の像も作ってはならない。」(申命記4:15-16)

「神の御言葉に指定されていないあらゆる他の方法による神礼拝」


 主が語られた日、何の形も見なかったのです。聞いた御言葉がすべてです。しかし、聖書の権威が見失われたままで、神礼拝の喜びや確かさが追い求められるとき、信仰は堕落の道へと進んでいます。

「あなたの神、主に対しては彼らと同じことをしてはならない。彼らは主がいとわれ、憎まれるあらゆることを神々に行い、その息子、娘さえも火に投じて神々にささげたのである。」(申命記12:31)


 聖書の御言葉に恐れおののきつつ信頼し、人生のありとあらゆる領域で神の主権を認めてひれ伏す人々。
彼らには、聖書が指定していないような方法によるどんな神礼拝も必要ではないでしょう。