『ウエストミンスター小教理問答 第11問』

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『ウエストミンスター小教理問答 第11問』

『ウエストミンスター小教理問答 第11問』 2012年1月22日

問11 神の摂理の御業とは、何ですか。

答 神の摂理の御業とは、神が、最もきよく、賢く、力強く、すべての被造物とそのあらゆる動きを保ち、治めておられることです。


2012年1月22日

「神が・・・すべての被造物とそのあらゆる動きを保ち、治めておられる」

聖書の教えによれば、すべてが神のご支配の下にあります。

「主は天上の宮から山々に水を注ぎ、御業の実りをもって地を満たされる。」(詩編104:13)

「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる・・・。」(マタイ5:45)

「今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。」(マタイ6:30)

「その一羽(の雀)さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。」(マタイ10:29)

偶然さえ、神のご支配の下にあります。

「くじは膝の上に投げるが、ふさわしい定めはすべて主から与えられる。」(箴言16:33)

また、人間の行動も、自由になされているように見えますが、神のご支配の下にあります。

「主の御手にあって王の心は水路のよう。主は御旨のままにその方向を定められる。」(箴言21:1)

「人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩を備えてくださる。」(箴言16:9)

そして、何よりも鮮やかに神のご支配を示す光は、わたしたちの主イエス・キリストの十字架です。
ユダヤの指導者は、自分たちの思いのままに行動して、主イエスを十字架につけることに、まんまと成功しました。彼らは策略をめぐらし、総督ピラトは無責任に手を貸し、群衆は扇動に乗り、弟子たちは裏切り、他の者たちは傍観しました。そして、ついに主の十字架が立てられました。しかし、聖書はこう教えます。

「このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。」(使徒2:23)

すべての被造物とそのあらゆる動きを治めたもう神が生きておられます。そして、人の罪深い行動さえもご支配なさって、救いの道を開いてくださいました。

「あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、・・・この方こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』です。」(使徒4:10、11)


2011年4月3日

「合理的な信仰」

 神を信じる者の合理性があります。
すべてをご支配なしたもう神の存在を信じるところから、すべてを考える合理性です。それに対して、神を無視する合理性があります。神などいないとして、すべてを考える合理性です。


 確かに神の摂理は神秘であって、人間の理解をはるかに超えています。

「神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。」(コヘレト3:11)

しかし、同時にこうも教えられています。

「心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」(ローマ12:2)

心を尽くし、思いを尽くし、知恵を尽くして神を愛し、神を知ろうとするのは、わたしたちの信仰にふさわしいことです。

 主イエスは、しばしば弟子たちに「なぜ」と問われました。

「なぜ、衣服のことで思い悩むのか。・・・」(マタイ6:28)
「なぜ、怖がるのか。・・・」(マタイ8:26)
「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。・・・」(マルコ2:8)
「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。・・・」(マルコ8:17)
「なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。・・・」(ルカ6:41)
「こんなごく小さな事さえできないのに、なぜ、ほかの事まで思い悩むのか。・・・」(ルカ12:26)
「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。・・・」(ルカ18:19)

 神を知って、依り頼む者にふさわしい合理的な考え方というものがあります。
神を知らないなら、とても不合理で愚かに見える考え方かもしれません。しかし、神は誰も神の御前で誇ることがないようにするために、愚かな手段で、ご自身の真理をわたしたちに伝えてくださったのです。神を信じる合理性に生きるにはあまりにも弱い私たちですが、主はご自身に従う者たちを決して置き去りにすることなく、常に憐れんでくださいます。

   「信仰の薄い者たちよ、なぜ疑ったのか。」(マタイ14:31)
   「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」(ヨハネ20:27)


2011年4月10日

「摂理の中を歩むために大切ないくつかのこと」

☆正しく

 摂理の中を歩むために大切な第一のことは、「正しく事を運ぶ」です。
「うまく」事を運ぼうとすることに心を奪われず、まず「正しく」事を運ぼうと堅く心を定めて進むことです。

「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」(ローマ12:2)

「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」(マタイ7:13-14)

☆小さく

 摂理の中を歩むために大切な第二のことは、「小さく進む」です。
主は、摂理の中で、わたしたちに主に一歩一歩従い、一日一日信頼する謙遜を教えてくださいます。

「主は人の一歩一歩を定め、御旨にかなう道を備えてくださる。」(詩編37:23)

「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ6:34)

摂理の中で、人間の傲慢な思いと大言壮語は次第に取り去られていきます。

「あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。こんなごく小さな事さえできないのに、なぜ、ほかの事まで思い悩むのか。」(ルカ12:25)

☆大きく

  摂理の中を歩むために大切なもう一つのことは、主の約束に基づいて望んでいる事柄を「大きく」とらえる信仰です。

その信仰によって「希望するすべ」がなくても、「なおも望みを抱いて」信じます。(ローマ4:18)

また、その信仰によって約束されたものを「はるかに見て喜びの声を」あげるのです。(ヘブライ11:13)